まえがき
空気を読めない・読み切れない、さつま芋です。
教科書をノートに手書きするというのは、学校アルアルですよね。
今でも残る この慣習を考えてみます。
手書き
平成が終わり令和になっても、教科書をノートに書かせる教師がいるそうです。
特に、英語と古文。
コピー機が普及したにも関わらず、敢えて手書きを求める背景を考えてみました。
そもそもは教科書の代わり?
図書館の存在や昔のドラマを見ても、かつては本が貴重で高価であったことが伺えます。
きっと、教科書が一人一冊 配られることもなかったため、必要に迫られて教科書をノートに写したと考えられます。
予習の意味合いがなかったとは思えませんが、教科書の代用としての合理的理由が大きかったはずです。
予習なのか
各個人が教科書を一冊持ち、コピーするのも それほど難しくない今、教科書を手書きすることに予習としての意味合いくらいしか思いつきません。
あいにく、私の場合は教科書転記が予習になった実感はなく、単純作業にしか感じませんでした。
もしも厳選した名文を繰り返し写すような反復を意図していれば別ですが、教師が指導実績を残すタテマエを疑ってしまいます。
ちなみに、私はディクテーション(口述筆記)練習として英文の手書きをしています。
ですが、シャドーイング(復唱)できないから止む無く…というのが本音で、手書き学習を他人に勧めたいとは思いません。
むしろ、寺子屋から続く音読や暗唱の方をお勧めしたいです。
手書き派の先生方、私も含めて合理性に疑問を持つ人が少なくありません。
できれば解説していただければ幸いです。
あとがき
合理性がすべてだとは思いませんが、教科書転記が思考停止の前例踏襲に見えてしまいます。
という単なる雑談でした。
以上、さつま芋でした。